こぼれる

別れると心に決めた日
それは本当に別れた日より何年も前だったが
ぼくは運転しながらカセットを聴いていた
子どものころ母が時々弾いていた旋律

子ども時代が懐かしいわけじゃなかった
ただ音楽のおかげでこれまでの時間を
いまの感情を離れて見晴らせるようになった
眼が涙でかすんできて車を止めた

死ぬ前に走馬灯のように過去が見える
ほんとかどうか知らないがそんな感じで
カセットは止まったのに
記憶はとりとめなく動き続けた…

その日から三十年余が過ぎた
別れたひとはもうこの世にいない
哀しみにくるまれていた歓びの思い出
束の間へと切り刻まれる永遠

人生は言葉からこぼれ続ける
物語も劇も置き去りにして

 

初出『悲劇喜劇』2018年11月号
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